もうだいぶ前(10年以上前か…)、若い頃よく入り浸っていたレコード店を久しぶりに覘いてみたときのこと。「R&Bコーナー」という棚が設けてあって「あなうれし」と早速飛びついた。パラパラと見ていたが、ジャケットの雰囲気がまったく新しい、知らないアーティストばかり。店員さんに「リズム・アンド・ブルースなんでしょ、ここ?」って聞くと、やや年長の店員さんが「最近のもリズム・アンド・ブルースって言うんですよ」とこちらの戸惑いを見透かしたようにちょっと苦笑して答えてくれた。これだけのスペースを割いているんだから新しい黒人音楽だよねと納得はしたが、しかし、なんでまた同じジャンル名 ― 1950年代の古くさい黒人音楽 ― にしているんだろうと納得のいかない気持ちも抱いたことを覚えている。
新しい黒人音楽を聴く機会は少ないが、ときたま耳に入ってくることもある。あの時代(1950年代)のR&B(リズム・アンド・ブルース)と同じ範疇(カテゴリー)には入るのだろうけど、まったく異なる音楽のように聴こえる。古い黒人音楽を長く聴いてきたわたしの耳にはやはり馴染めない。時代が違うのだから仕方ないとは思う。でも、R&Bは、ブルース、ゴスペル、ソウル・ミュージック、あるいはブラック・コンテンポラリーなどと同様、一時代を築いた音楽世界だった。のちの大衆音楽にも多大な影響を与えてきた固有のジャンルであり、音楽用語としても確立しているはず。なのに最近の黒人音楽になぜ同一ジャンル名を施しているのだろう? 混乱を招くだろうし、第一、すごい違和感を覚えるのだが…。音楽業界はなぜ気を利かせて別の命名にしなかったのか、いささか不可解でもある。それとも、新しい黒人音楽に「R&B」と名付けなければならない必然的な理由でもあったのだろうか?
ところで、1950年代のR&Bにきちんとした定義でもあったのかと問われれば答に窮する。実際、1940年代に都市部で台頭してきた「ジャンプ・ブルース(Jump Blues)」とどう聴き分けたらいいのか、そのジャンプ・ブルースも「シティ・ブルース(City Blues)」や「アーバン・ブルース(Urban Blues)」などとどう区分したらいいのかよくわからない。一方、1950年代末から60年代初頭に興ったソウル・ミュージック(Soul Music)は、その初期においてR&B全盛期とほとんど重なって登場してきたためか明瞭な区別もつけにくい。
では、そういったジャンル分けは言葉の遊びのようなものでまったく意味がないのかと言われれば必ずしもそうではない。それぞれの音楽がジャンル分けされたのは、やはり、社会的、地域的、音楽的、時代的にエポックメーキングな事情を反映しているからだろう。
そういった観点からR&Bをちょっと眺めてみる。
もともとブルース(Blues)は全米各地域で発展してきたものだったが、第二次世界大戦後、黒人の都市部への移動などで独自の黒人音楽が興った。これが前述のシティ・ブルースやアーバン・ブルースと呼ばれる所以だろう。また、従来の(古典的な)ブルースに比べ、ジャズ(Jazz)で用いられるホーン楽器・電気楽器の音響効果や、ブギウギ(Boogie Woogie)のリズム、ゴスペル特有のシャウト(Shout)唱法など採り入れ格段に強いビート感、激しいジャンプ感を生んだ。そんな音楽的特徴からジャンプ・ブルースと呼ばれるようになったのだろう。
そして全米に広く浸透していくとともに白人層にも認識されていくわけだが、レイス・ミュージック(Race Music;人種音楽)という表現はあまり好ましいものではなかったためか、1949年、大衆音楽誌・ビルボード(Billboard)はリズム・アンド・ブルース(Rhythm And Blues; R&B)という名称に置き換えた。これがR&Bと呼称される始まりとなった。
1950年代に入るとR&Bはますます発展・拡大していくことになるが、とりわけ、ロックンロール(Rock'n'Roll)・ブームの原動力となり白人社会に進出していった。1950年代中期・後期にはチャック・ベリー(Chuck Berry)、リトル・リチャード(Little Richard)、ファッツ・ドミノ(Fats Domino)、レイ・チャールズ(Ray Charles)、ルース・ブラウン(Ruth Brown)、クライド・マックファーター(Clyde McPhatter)、ラヴァーン・ベイカー(LaVern Baker)、ロイド・プライス(Lloyd Price)ら黒人R&Bスターが全国的に人気を博した。さらに、ストリート・コーナー・ハーモニー(Street Corner Harmony)から発展したドゥー・ワップ(Doo Wop)が大流行し、夥しい数の黒人ヴォーカル・グループが生まれた。R&Bは、まさに当時の全米音楽市場の主導権すら握ってしまう様相を呈した。ドゥーワップは、ホワイト・ドゥー・ワップ(White Doo Wop)、そしてドリーミーなティーン・ポップス(Teen Pops)などへと引き継いでいったが、ロックンロールの衰退とともに、R&Bは立ち停まってしまうことになった。
1950年代末、黒人音楽であるR&Bが、ロックンロール路線に乗ってコマーシャリズムに走りすぎ、享楽的なエンターテインメントに堕落してしまったという反省や自戒が一部の黒人の間に芽生えていた。黒人本来の音楽 ― 原点に戻ろうという一種の民族意識や、当時盛り上がっていた公民権運動の影響などあったのかもしれない。いずれにせよ、これがソウル・ミュージック誕生のキッカケとなった。ソウルはその名称を残したまま70年代以降また別の音楽へと変化していくが、初期においては、かってのゴスペル・ミュージックを想起させるような「心と魂(Heart & Soul)」を、R&Bで培った強いビートに乗せて熱く歌い上げようとするものであった。
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一番好きな音楽ジャンルは何だろうかと考えてみた。もちろん、どんなジャンルでも素晴しい曲はたくさんあって絞り込む必要はないのだけれど、長い間、1950年代から60年代の大衆音楽を聴いてきた中で、とりわけ黒人音楽への想いは熱かったように思う。ジャズやブルース、ドゥー・ワップもソウル・ミュージックも夢中になって聴いていた時期はあったが、今だ強く惹かれ興味深く聴いているのが 1940年代後半から1950年代のジャンプ・ブルース~R&Bかもしれない。ちょうどロックンロール旋風が興る前夜の、あまり陽の当たらない時期の黒人音楽である。日本ではとくに不人気の分野らしく、CDレコードの販売規模はきわめて小さく、一般のレコード店ではあまり扱われておらず、音源収集も思うにまかせないけれど、その歴史的価値、音源の入手困難さゆえに聴きたいという気持ちが強くなってきたのかもしれない。
今回は、女性R&B歌手、アン・コール(Ann Cole)を採りあげてみた。マディ・ウォーターズ(Muddy Waters)のヒット曲”Got My Mo-Jo Working (But It Just Won't Work On You), 1957”のオリジナル歌手として少しばかり知られている以外ほとんど無名に近い。彼女は、ゴスペル~R&Bと1950年代の黒人音楽とともに生き、ソウル・ミュージックの旗手のひとりと期待されていた。そんな彼女の音楽と、その足跡を紹介してみたいと思った。
なお、当初、表題曲を50年代のR&B曲にしようと思っていたが、ソウル・ミュージック、とくにレディー・ソウルに凝っていた一時期に好んで聴いていた”Have Fun, 1962”の方を選んでみた。R&B歌手ではあるけれど、たった2曲しか歌っていないとは言え、彼女の真価はソウル・ミュージックにあったのではないかと、個人的には思うのである。
アン・コールは本名をシンシア・コールマン(Cynthia Coleman)といい、1934年1月24日(29日という説もある)、ニュー・ジャージー州 Newark に生まれた。父は有名なゴスペル・グループ、The Coleman Brothers(1918年結成)のメンバーで、彼女は幼少の頃から父や叔父らの歌を聴いて育った。そして12歳になると、教会で歌ったり、父親たちとコンサートに出演した。
1949年、彼女が15歳になったとき、従兄弟らとともにゴスペル・グループを結成、グループ名を The Colemanaires(Cynthia Coleman, Joe Walker, Sam Walker and Wesley Johnson)と名乗った。リード・ヴォーカルはアンが担当、全米主要都市を約2年間にわたって巡業した。
1953年から54年にかけて、彼らは名門アポロ(Apollo)レーベルの傘下 Timely で5枚の 78回転シングル(一枚はApollo盤)を吹き込んだ。この間、アンは個人名義でも3枚録音している。いずれもヒットすることなく終わってしまった。またこの間に、彼女は、The Three Kings 、The Claudiettes というヴォーカル・グループを率いて2レーベルから一枚ずつリリースした記録も残っているが、それらに関することは不明。
アンの歌声を耳にして強く惹かれた人物がいた。バトン(Baton)・レーベルの Sol Rabinowitz である。彼は無名の新人を探し求めていた。バトンは、"A Thousand Stars"のヒットを放ったリヴィリアーズ(The Rivileers)や、大ヒット曲”Lonely Nights”を歌った黒人女性グループ、ハーツ(The Hearts)を擁するニュー・ヨークの中堅レーベルである。アンはこのレーベルと専属契約を結び、ゴスペルから時の黒人音楽、リズム・アンド・ブルース(R&B)に転向することとなった。
1955年から58年にかけて、このレーベルで8枚のシングル盤をリリースした。デビュー曲の”Are You Satisfied ?”はビルボード誌、キャッシュボックス誌ともにR&Bチャート10位と幸先のよいスターを切った。4枚目の”In The Chapel”は14位と健闘、5枚目はちょっとしたエピソードとともに思わぬ展開が待っていた。
1957年初め、シカゴ・ブルースの巨人、マディ・ウォーターズ(Muddy Waters)と南部を公演旅行したとき、その5枚目、すでに録音はしていたけれどまだ発表していなかった”Got My Mo-Jo Working(But It Just Won't Work On You)”を、マネージャーの Sol Rabinowitz の警告があったにもかかわらず、マディのバンドをバックに歌ってしまった。この曲を聴いたマディはいたく気に入りチェス(Chess)・レーベルに頼んで録音してしまった。結局、アン・コールのリリースとほぼ同時に発売され、同じ週のR&Bヒット・チャートにランキング入りした。マディ・ウォーターズは7位、アン・コールは3位まで上昇した。アンにとっては最大のヒット曲となったが、マディにとっては「フーチー・クーチー・マン(I'm Your Hoochie Coochie Man, 1954)」とともに定番のレパートリー曲となった。
マディに歌われたことによって有名となったこの曲は多くのカヴァー版を生んだ。ちなみにカヴァーした主な歌手、グループ、ジャズ演奏者らを記しておく。ルイ・ジョーダン(Louis Jordan)、コンウェイ・トゥイッティ(Conway Twitty)、マンフレッド・マン(Manfred Mann)、ゾンビーズ(The Zombies)、キングスメン(The Kingsmen)、ポール・リビアとレイダース(Paul Revere & The Raiders)、ジョニー・リヴァース(Johnny Rivers)、ジミー・スミス(Jimmy Smith)、アート・ブレーキー(Art Blakey)、カーラ・トーマス(Carla Thomas)、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)、B.B.キング(B. B. King)バディ・ガイ(Buddy Guy)、オーティス・ラッシュ(Otis Rush)ら。その錚々たる顔ぶれにちょっと驚かされる。また、2004年のローリング・ストーンズ誌(Rolling Stone magazine)”500 Greatest Songs of All Time”の359位に選ばれている。
この曲は、プレストン・フォスター(Preston Foster)が作詞・作曲したもので、オリジナル歌手はアン・コールなのだけれど、マディ版に若干の歌詞の違いがあったり、またチェスがこの辺の事情を知らなかったためか、作者をマディ・ウォーターズと主張したため訴訟問題となった。裁定はフォスターが作者と認められたが、その後も著作権問題で両者は争っているという(最新情報ではどうなっているのか不明なので興味ある方は調べてみてください)。
なお、アン・コールは、この曲のおかげでキャッシュ・ボックス誌の1956年度「最も有望な新人女性R&B歌手(Most Promising New Female R&B Vocalist)」に選ばれた。
その後、ファッツ・ドミノとのデュエット盤(Imperial 5444 のB面)を吹き込んだりしたが、ヒット曲に恵まれず、1958年に彼女はバトンを去った。以降、APT、Sir、MGMなどを転々としながら何枚かリリースするがいずれも不発に終わった。
どういう経緯なのか不明だが、1962年、彼女は名門レーベル・ルーレット(Roulette)で吹き込むことになった。リチャード・バレット(Richard Barrett)、彼は1950年代の最も成功した黒人女性ヴォーカル・グループ、シャンテルズ(The Chantels)のヒット曲の多くを手がけ、マネージャーも兼ねる人物であった。その彼がプロデュースを担当した。A面は、同じ年 R&Bチャート6位まで昇ったエタ・ジェームズ(Etta James)の”Stop The Wedding”のアンサー・ソング、”Don't Stop The Wedding”で、全米99位を記録した。彼女にとっては初めてのポップ・チャートのランク・インであった。B面の”Have Fun”はR&Bチャート21位まで上昇した。2曲とも新時代のソウルフルな佳曲ではあったが、これが彼女の最後のシングル・リリースとなった。
1960年代中頃としか記録にはないが、彼女は自動車事故に遭いかなり深刻なダメージを負った。以後車椅子で生活することになり再び音楽活動に戻ることはなかった。およそ20年経た1986年11月、故郷の Newark でほとんど誰にも知られることなくその生涯を終えた。享年51歳であった。
[ディスコグラフィー]
The Colemanaires
Old Ship Of Zion (Part 1) / Old Ship Of Zion (Part 2) (Timely 101) 1953
Joy In The Prayer Room / Somebody Saved Me (Timely 102) 1953
I'll Fly Away / When The Pearly Gates Unfold (Timely 103) 1953
Be Ready When He Comes / Out On The Ocean Sailing (Timely 105) 1954
This May Be The Last Time / I Cannot Understand It (Apollo 308)- 1954 (1957)
Ann Cole (with Howard Briggs Orchestra)
Danny Boy / Smilin' Through (Timely 1006) 1954
Oh Love Of Mine / I'll Fina A Way (Timely 1007) 1954
Down In The Valley / So Proud Of You (Timely 1010) 1954
Since I Fell For You / Then You Taught Me How To Cry (Timely 1012) 1954 unissued
Ann Cole with The Three Kings
The Fishin' Song / Adam Had 'Em (Record Specialties 47-624/625) ?
Ann Cole With The Claudiettes
Please Forgive Me / I Want To Be A Big Girl (Mor-Play 701) 1955
Ann Cole (with McRae Orchestra)
Are You Satisfied ? / Darling Don't Hurt Me (Baton 218) 1955
Easy Easy Baby / New Love (Baton 224) 1956
My Tearful Heart / I'm Waiting For You (Baton 229) 1956
Ann Clark(アン・コール本人かどうか未確認)
Those Lonely, Lonely Nights / I Had A Dream (Ace 512) 1956
Ann Cole with The Suburbans
In The Chapel / Each Day (Baton 232) 1956
Got My Mo-Jo Working (But It Just Won't Work On You) / I've Got A Little Boy (Baton 237) 1957
Ann Cole
No Star Is Lost / You're Mine (Baton 243) 1957
Fats Domino with Ann Cole(B面のみ)
What Will I Tell My Heart / When I See You (Imperial 5454) 1957
Ann Cole
Give Me Love Or Nothing / I've Got Nothing Working Now (But My Real Old Fashioned Love) (Baton 247) 1957
Love In My Heart / Summer Nights (Baton 258) 1958
Ann Cole (with Sammy Lowe Orchestra)
Nobody But Me / That's Enough (Sir 272) 1960
A Love Of My Own / Brand New House (Sir 275) 1960
In The Chapel / Plain As The Nose On Your Face (MGM 12954) 1960
Ann Cole
Have Fun / Don't Stop The Wedding (Roulette 4452) 1962
[曲について]
彼女のゴスペル曲のすべては、78回転シングル盤のみではあるけれど Timely に残されている。原盤入手は困難だろうし、また対応できるプレーヤーもないので聴くことは難しい。しかし、2001年にBluecityからCDで集大成盤が復刻された。また、Baton のR&B曲は、10年ほど前 ACE から”The Baton Label Sol's Story”というコンピ盤が発売されたので、完璧とは言えないまでもこの2枚でほぼ全容を聴くことができる。また YouTube でも主要曲を楽しむことができる。Roulette の2曲は、ソウル・ミュージック系再発レーベルのいくつかのコンピ盤に収録されている。
Have Fun, 1962 … 小品ながらも情感たっぷりのソウル・バラード。マキシン・ブラウン(Maxine Brown)やカーラ・トーマス(Carla Thomas)の歌と重なる。イントロの男声ナレーションは、もしかしたらプロデューサーのリチャード・バレットかも。彼はシャンテルズをバックに歌っていたからだ。
Don't Stop The Wedding, 1962 … ゴスペルで鍛えた彼女の声や唱法は、来たる時代のソウル・ミュージックにピッタリだと思うのだが、それにしても残念・・・。
My Tearful Heart, 1956 … ミディアム・テンポのR&Bバラードであるが、私がひそかに彼女の最高の傑作じゃないかと思っている作品。ルース・ブラウンやラヴァーン・ベーカーよりちょっと線の細いのが残念だが。
Got My Mo-Jo Working (But It Just Won't Work On You), 1957 … この彼女の歌がこの曲のオリジナル。ジャンプしまくる彼女とバックアップ・コーラスのサバーバンズの掛け合いがまた素晴しい。
(参考)Muddy Waters & James Cotton - Got My Mojo Working, 1966 … 少々新しいが、マディの歌う映像を観ていただきたいのでライヴをアップ。ジェームズ・コットンのハーモニカもいい。
Summer Nights, 1958 … Baton での最後の曲。こういう、彼女らしくない、あまり特徴のない曲を歌い出したらやはり落ち目なのかも。ちょい哀しそうな歌声、個人的にはけっこう好きなのだけれど…。
新しい黒人音楽を聴く機会は少ないが、ときたま耳に入ってくることもある。あの時代(1950年代)のR&B(リズム・アンド・ブルース)と同じ範疇(カテゴリー)には入るのだろうけど、まったく異なる音楽のように聴こえる。古い黒人音楽を長く聴いてきたわたしの耳にはやはり馴染めない。時代が違うのだから仕方ないとは思う。でも、R&Bは、ブルース、ゴスペル、ソウル・ミュージック、あるいはブラック・コンテンポラリーなどと同様、一時代を築いた音楽世界だった。のちの大衆音楽にも多大な影響を与えてきた固有のジャンルであり、音楽用語としても確立しているはず。なのに最近の黒人音楽になぜ同一ジャンル名を施しているのだろう? 混乱を招くだろうし、第一、すごい違和感を覚えるのだが…。音楽業界はなぜ気を利かせて別の命名にしなかったのか、いささか不可解でもある。それとも、新しい黒人音楽に「R&B」と名付けなければならない必然的な理由でもあったのだろうか?
ところで、1950年代のR&Bにきちんとした定義でもあったのかと問われれば答に窮する。実際、1940年代に都市部で台頭してきた「ジャンプ・ブルース(Jump Blues)」とどう聴き分けたらいいのか、そのジャンプ・ブルースも「シティ・ブルース(City Blues)」や「アーバン・ブルース(Urban Blues)」などとどう区分したらいいのかよくわからない。一方、1950年代末から60年代初頭に興ったソウル・ミュージック(Soul Music)は、その初期においてR&B全盛期とほとんど重なって登場してきたためか明瞭な区別もつけにくい。
では、そういったジャンル分けは言葉の遊びのようなものでまったく意味がないのかと言われれば必ずしもそうではない。それぞれの音楽がジャンル分けされたのは、やはり、社会的、地域的、音楽的、時代的にエポックメーキングな事情を反映しているからだろう。
そういった観点からR&Bをちょっと眺めてみる。
もともとブルース(Blues)は全米各地域で発展してきたものだったが、第二次世界大戦後、黒人の都市部への移動などで独自の黒人音楽が興った。これが前述のシティ・ブルースやアーバン・ブルースと呼ばれる所以だろう。また、従来の(古典的な)ブルースに比べ、ジャズ(Jazz)で用いられるホーン楽器・電気楽器の音響効果や、ブギウギ(Boogie Woogie)のリズム、ゴスペル特有のシャウト(Shout)唱法など採り入れ格段に強いビート感、激しいジャンプ感を生んだ。そんな音楽的特徴からジャンプ・ブルースと呼ばれるようになったのだろう。
そして全米に広く浸透していくとともに白人層にも認識されていくわけだが、レイス・ミュージック(Race Music;人種音楽)という表現はあまり好ましいものではなかったためか、1949年、大衆音楽誌・ビルボード(Billboard)はリズム・アンド・ブルース(Rhythm And Blues; R&B)という名称に置き換えた。これがR&Bと呼称される始まりとなった。
1950年代に入るとR&Bはますます発展・拡大していくことになるが、とりわけ、ロックンロール(Rock'n'Roll)・ブームの原動力となり白人社会に進出していった。1950年代中期・後期にはチャック・ベリー(Chuck Berry)、リトル・リチャード(Little Richard)、ファッツ・ドミノ(Fats Domino)、レイ・チャールズ(Ray Charles)、ルース・ブラウン(Ruth Brown)、クライド・マックファーター(Clyde McPhatter)、ラヴァーン・ベイカー(LaVern Baker)、ロイド・プライス(Lloyd Price)ら黒人R&Bスターが全国的に人気を博した。さらに、ストリート・コーナー・ハーモニー(Street Corner Harmony)から発展したドゥー・ワップ(Doo Wop)が大流行し、夥しい数の黒人ヴォーカル・グループが生まれた。R&Bは、まさに当時の全米音楽市場の主導権すら握ってしまう様相を呈した。ドゥーワップは、ホワイト・ドゥー・ワップ(White Doo Wop)、そしてドリーミーなティーン・ポップス(Teen Pops)などへと引き継いでいったが、ロックンロールの衰退とともに、R&Bは立ち停まってしまうことになった。
1950年代末、黒人音楽であるR&Bが、ロックンロール路線に乗ってコマーシャリズムに走りすぎ、享楽的なエンターテインメントに堕落してしまったという反省や自戒が一部の黒人の間に芽生えていた。黒人本来の音楽 ― 原点に戻ろうという一種の民族意識や、当時盛り上がっていた公民権運動の影響などあったのかもしれない。いずれにせよ、これがソウル・ミュージック誕生のキッカケとなった。ソウルはその名称を残したまま70年代以降また別の音楽へと変化していくが、初期においては、かってのゴスペル・ミュージックを想起させるような「心と魂(Heart & Soul)」を、R&Bで培った強いビートに乗せて熱く歌い上げようとするものであった。
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一番好きな音楽ジャンルは何だろうかと考えてみた。もちろん、どんなジャンルでも素晴しい曲はたくさんあって絞り込む必要はないのだけれど、長い間、1950年代から60年代の大衆音楽を聴いてきた中で、とりわけ黒人音楽への想いは熱かったように思う。ジャズやブルース、ドゥー・ワップもソウル・ミュージックも夢中になって聴いていた時期はあったが、今だ強く惹かれ興味深く聴いているのが 1940年代後半から1950年代のジャンプ・ブルース~R&Bかもしれない。ちょうどロックンロール旋風が興る前夜の、あまり陽の当たらない時期の黒人音楽である。日本ではとくに不人気の分野らしく、CDレコードの販売規模はきわめて小さく、一般のレコード店ではあまり扱われておらず、音源収集も思うにまかせないけれど、その歴史的価値、音源の入手困難さゆえに聴きたいという気持ちが強くなってきたのかもしれない。
今回は、女性R&B歌手、アン・コール(Ann Cole)を採りあげてみた。マディ・ウォーターズ(Muddy Waters)のヒット曲”Got My Mo-Jo Working (But It Just Won't Work On You), 1957”のオリジナル歌手として少しばかり知られている以外ほとんど無名に近い。彼女は、ゴスペル~R&Bと1950年代の黒人音楽とともに生き、ソウル・ミュージックの旗手のひとりと期待されていた。そんな彼女の音楽と、その足跡を紹介してみたいと思った。
なお、当初、表題曲を50年代のR&B曲にしようと思っていたが、ソウル・ミュージック、とくにレディー・ソウルに凝っていた一時期に好んで聴いていた”Have Fun, 1962”の方を選んでみた。R&B歌手ではあるけれど、たった2曲しか歌っていないとは言え、彼女の真価はソウル・ミュージックにあったのではないかと、個人的には思うのである。
アン・コールは本名をシンシア・コールマン(Cynthia Coleman)といい、1934年1月24日(29日という説もある)、ニュー・ジャージー州 Newark に生まれた。父は有名なゴスペル・グループ、The Coleman Brothers(1918年結成)のメンバーで、彼女は幼少の頃から父や叔父らの歌を聴いて育った。そして12歳になると、教会で歌ったり、父親たちとコンサートに出演した。
1949年、彼女が15歳になったとき、従兄弟らとともにゴスペル・グループを結成、グループ名を The Colemanaires(Cynthia Coleman, Joe Walker, Sam Walker and Wesley Johnson)と名乗った。リード・ヴォーカルはアンが担当、全米主要都市を約2年間にわたって巡業した。
1953年から54年にかけて、彼らは名門アポロ(Apollo)レーベルの傘下 Timely で5枚の 78回転シングル(一枚はApollo盤)を吹き込んだ。この間、アンは個人名義でも3枚録音している。いずれもヒットすることなく終わってしまった。またこの間に、彼女は、The Three Kings 、The Claudiettes というヴォーカル・グループを率いて2レーベルから一枚ずつリリースした記録も残っているが、それらに関することは不明。
アンの歌声を耳にして強く惹かれた人物がいた。バトン(Baton)・レーベルの Sol Rabinowitz である。彼は無名の新人を探し求めていた。バトンは、"A Thousand Stars"のヒットを放ったリヴィリアーズ(The Rivileers)や、大ヒット曲”Lonely Nights”を歌った黒人女性グループ、ハーツ(The Hearts)を擁するニュー・ヨークの中堅レーベルである。アンはこのレーベルと専属契約を結び、ゴスペルから時の黒人音楽、リズム・アンド・ブルース(R&B)に転向することとなった。
1955年から58年にかけて、このレーベルで8枚のシングル盤をリリースした。デビュー曲の”Are You Satisfied ?”はビルボード誌、キャッシュボックス誌ともにR&Bチャート10位と幸先のよいスターを切った。4枚目の”In The Chapel”は14位と健闘、5枚目はちょっとしたエピソードとともに思わぬ展開が待っていた。
1957年初め、シカゴ・ブルースの巨人、マディ・ウォーターズ(Muddy Waters)と南部を公演旅行したとき、その5枚目、すでに録音はしていたけれどまだ発表していなかった”Got My Mo-Jo Working(But It Just Won't Work On You)”を、マネージャーの Sol Rabinowitz の警告があったにもかかわらず、マディのバンドをバックに歌ってしまった。この曲を聴いたマディはいたく気に入りチェス(Chess)・レーベルに頼んで録音してしまった。結局、アン・コールのリリースとほぼ同時に発売され、同じ週のR&Bヒット・チャートにランキング入りした。マディ・ウォーターズは7位、アン・コールは3位まで上昇した。アンにとっては最大のヒット曲となったが、マディにとっては「フーチー・クーチー・マン(I'm Your Hoochie Coochie Man, 1954)」とともに定番のレパートリー曲となった。
マディに歌われたことによって有名となったこの曲は多くのカヴァー版を生んだ。ちなみにカヴァーした主な歌手、グループ、ジャズ演奏者らを記しておく。ルイ・ジョーダン(Louis Jordan)、コンウェイ・トゥイッティ(Conway Twitty)、マンフレッド・マン(Manfred Mann)、ゾンビーズ(The Zombies)、キングスメン(The Kingsmen)、ポール・リビアとレイダース(Paul Revere & The Raiders)、ジョニー・リヴァース(Johnny Rivers)、ジミー・スミス(Jimmy Smith)、アート・ブレーキー(Art Blakey)、カーラ・トーマス(Carla Thomas)、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)、B.B.キング(B. B. King)バディ・ガイ(Buddy Guy)、オーティス・ラッシュ(Otis Rush)ら。その錚々たる顔ぶれにちょっと驚かされる。また、2004年のローリング・ストーンズ誌(Rolling Stone magazine)”500 Greatest Songs of All Time”の359位に選ばれている。
この曲は、プレストン・フォスター(Preston Foster)が作詞・作曲したもので、オリジナル歌手はアン・コールなのだけれど、マディ版に若干の歌詞の違いがあったり、またチェスがこの辺の事情を知らなかったためか、作者をマディ・ウォーターズと主張したため訴訟問題となった。裁定はフォスターが作者と認められたが、その後も著作権問題で両者は争っているという(最新情報ではどうなっているのか不明なので興味ある方は調べてみてください)。
なお、アン・コールは、この曲のおかげでキャッシュ・ボックス誌の1956年度「最も有望な新人女性R&B歌手(Most Promising New Female R&B Vocalist)」に選ばれた。
その後、ファッツ・ドミノとのデュエット盤(Imperial 5444 のB面)を吹き込んだりしたが、ヒット曲に恵まれず、1958年に彼女はバトンを去った。以降、APT、Sir、MGMなどを転々としながら何枚かリリースするがいずれも不発に終わった。
どういう経緯なのか不明だが、1962年、彼女は名門レーベル・ルーレット(Roulette)で吹き込むことになった。リチャード・バレット(Richard Barrett)、彼は1950年代の最も成功した黒人女性ヴォーカル・グループ、シャンテルズ(The Chantels)のヒット曲の多くを手がけ、マネージャーも兼ねる人物であった。その彼がプロデュースを担当した。A面は、同じ年 R&Bチャート6位まで昇ったエタ・ジェームズ(Etta James)の”Stop The Wedding”のアンサー・ソング、”Don't Stop The Wedding”で、全米99位を記録した。彼女にとっては初めてのポップ・チャートのランク・インであった。B面の”Have Fun”はR&Bチャート21位まで上昇した。2曲とも新時代のソウルフルな佳曲ではあったが、これが彼女の最後のシングル・リリースとなった。
1960年代中頃としか記録にはないが、彼女は自動車事故に遭いかなり深刻なダメージを負った。以後車椅子で生活することになり再び音楽活動に戻ることはなかった。およそ20年経た1986年11月、故郷の Newark でほとんど誰にも知られることなくその生涯を終えた。享年51歳であった。
[ディスコグラフィー]
The Colemanaires
Old Ship Of Zion (Part 1) / Old Ship Of Zion (Part 2) (Timely 101) 1953
Joy In The Prayer Room / Somebody Saved Me (Timely 102) 1953
I'll Fly Away / When The Pearly Gates Unfold (Timely 103) 1953
Be Ready When He Comes / Out On The Ocean Sailing (Timely 105) 1954
This May Be The Last Time / I Cannot Understand It (Apollo 308)- 1954 (1957)
Ann Cole (with Howard Briggs Orchestra)
Danny Boy / Smilin' Through (Timely 1006) 1954
Oh Love Of Mine / I'll Fina A Way (Timely 1007) 1954
Down In The Valley / So Proud Of You (Timely 1010) 1954
Since I Fell For You / Then You Taught Me How To Cry (Timely 1012) 1954 unissued
Ann Cole with The Three Kings
The Fishin' Song / Adam Had 'Em (Record Specialties 47-624/625) ?
Ann Cole With The Claudiettes
Please Forgive Me / I Want To Be A Big Girl (Mor-Play 701) 1955
Ann Cole (with McRae Orchestra)
Are You Satisfied ? / Darling Don't Hurt Me (Baton 218) 1955
Easy Easy Baby / New Love (Baton 224) 1956
My Tearful Heart / I'm Waiting For You (Baton 229) 1956
Ann Clark(アン・コール本人かどうか未確認)
Those Lonely, Lonely Nights / I Had A Dream (Ace 512) 1956
Ann Cole with The Suburbans
In The Chapel / Each Day (Baton 232) 1956
Got My Mo-Jo Working (But It Just Won't Work On You) / I've Got A Little Boy (Baton 237) 1957
Ann Cole
No Star Is Lost / You're Mine (Baton 243) 1957
Fats Domino with Ann Cole(B面のみ)
What Will I Tell My Heart / When I See You (Imperial 5454) 1957
Ann Cole
Give Me Love Or Nothing / I've Got Nothing Working Now (But My Real Old Fashioned Love) (Baton 247) 1957
Love In My Heart / Summer Nights (Baton 258) 1958
Ann Cole (with Sammy Lowe Orchestra)
Nobody But Me / That's Enough (Sir 272) 1960
A Love Of My Own / Brand New House (Sir 275) 1960
In The Chapel / Plain As The Nose On Your Face (MGM 12954) 1960
Ann Cole
Have Fun / Don't Stop The Wedding (Roulette 4452) 1962
[曲について]
彼女のゴスペル曲のすべては、78回転シングル盤のみではあるけれど Timely に残されている。原盤入手は困難だろうし、また対応できるプレーヤーもないので聴くことは難しい。しかし、2001年にBluecityからCDで集大成盤が復刻された。また、Baton のR&B曲は、10年ほど前 ACE から”The Baton Label Sol's Story”というコンピ盤が発売されたので、完璧とは言えないまでもこの2枚でほぼ全容を聴くことができる。また YouTube でも主要曲を楽しむことができる。Roulette の2曲は、ソウル・ミュージック系再発レーベルのいくつかのコンピ盤に収録されている。
Have Fun, 1962 … 小品ながらも情感たっぷりのソウル・バラード。マキシン・ブラウン(Maxine Brown)やカーラ・トーマス(Carla Thomas)の歌と重なる。イントロの男声ナレーションは、もしかしたらプロデューサーのリチャード・バレットかも。彼はシャンテルズをバックに歌っていたからだ。
Don't Stop The Wedding, 1962 … ゴスペルで鍛えた彼女の声や唱法は、来たる時代のソウル・ミュージックにピッタリだと思うのだが、それにしても残念・・・。
My Tearful Heart, 1956 … ミディアム・テンポのR&Bバラードであるが、私がひそかに彼女の最高の傑作じゃないかと思っている作品。ルース・ブラウンやラヴァーン・ベーカーよりちょっと線の細いのが残念だが。
Got My Mo-Jo Working (But It Just Won't Work On You), 1957 … この彼女の歌がこの曲のオリジナル。ジャンプしまくる彼女とバックアップ・コーラスのサバーバンズの掛け合いがまた素晴しい。
(参考)Muddy Waters & James Cotton - Got My Mojo Working, 1966 … 少々新しいが、マディの歌う映像を観ていただきたいのでライヴをアップ。ジェームズ・コットンのハーモニカもいい。
Summer Nights, 1958 … Baton での最後の曲。こういう、彼女らしくない、あまり特徴のない曲を歌い出したらやはり落ち目なのかも。ちょい哀しそうな歌声、個人的にはけっこう好きなのだけれど…。